巣鴨庚申塚由来記
 全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は、高さ八尺で文亀二年
(1502年)建立、現存していれば区内最古の石碑。

 昔、巣鴨の庚申塚は、中山道の本街道であり、板橋宿の一つ手前の立場として上り、下りの旅人の往来が激しく、休息所として賑わい簡単な茶屋も在り、人足や馬の世話もした。

 広重の絵にも描かれ、江戸名所図絵で見ると、茶店に人が休み、人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。

 ここに団子など売る茶店もできて、藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で花の頃は、小林一茶も訪れて「 藤棚に寝て見てもまたお江戸かな 」の句がある。

 尚、現在の庚申塔は、明暦三年(1657年)に建立されたものです。

 以前の庚申塔は、世に云う明暦の大火とも振り袖火事とも云う大火のあと、復興のため江戸の入口、巣鴨にも、上州、秩父、川越方面より持込む木材が多く集積された。道路の左右は寸尺の空地も無く、庚申堂の碑に立掛けた竹木が重心を失い、庚申塔に倒れ当り五つに砕けた。砕けた庚申塔はそのまま土の中に埋め、其の上に新しい庚申塔を建立したと云う。

※振り袖火事で有名な本妙寺は、明治四十四年本郷よりこの地に移る。

 巣鴨庚申塚の賑わい

 天保七年(1836年)に刊行された『江戸名所図会』には「巣鴨庚申塚」と題する巣鴨庚申塚周辺の風景が描かれています。

 挿絵のほぼ中央に位置する道標に刻まれた「右わうし(王子)道」の記述や、右端中央に描かれた巣鴨庚申塚の地名となった庚申塔の場所から、現在の地蔵通りと折戸通りの交差点付近の様子を描いたもので、左奥が板橋宿方面、右側が日本橋方面となるでしょう。
 
 ある夏の暑い日、葦簾掛けの簡素な団子茶屋の後方には耕地が延々と広がっています。

 茶屋の椅子に腰掛けて汗を拭く人、扇子や団扇で扇ぎながら歩く人、駕籠かきと馬子ふうの人夫同士のにらみ合い、虫取り網を持つ子供、木陰でぐったりと休む犬などが描かれています。

 秋の行楽シーズンには、巣鴨・駒込の植木屋へ繰り出す菊見客や、王子稲荷神社への参拝客で賑わったことでしょう。




 巣鴨庚申塚の現在の賑わい

 『江戸名所図会』に描かれた風景に近い現在の地蔵通りと折戸通りの交差点付近です。

 中央緑色の矢印が巣鴨庚申塚で、交差した赤色の矢印、奥が板橋宿方面、右側が日本橋方面となります。

 交差した赤色の矢印、奥の辺りが、都電荒川線の庚申塚駅で、さらに明治通りまで庚申塚商栄会の商店街が続きます。写真右側が巣鴨地蔵通り商店街でいつも賑やかです。